旅館白磯は、昭和12年2月20日に赤崎伝三郎の私邸として建てられたものでした。
総工費2万5千円をかけて作られたもので、昭和初期の小学校教諭の初任給が50円程度であったことから、かなりの豪邸でありました。
赤崎伝三郎とはいったいどんな人物であったかをたどってみたいと思います。
赤崎伝三郎の生涯
赤崎伝三郎は、明治4年9月に高浜村皿山の農家に生まれました。
赤崎家の先祖は、江戸時代の初めは大江組のおおじょうやを務めていました。しかし、赤崎伝三郎が生まれた明治時代の赤崎家は多額の借金を抱え、赤崎伝三郎は小学校を終えると、親を助けるために地元の陶器製造業で働いていました。
赤崎伝三郎が18歳の時、天草で働いても収益がわずかだったため、長崎にコックとして出稼ぎに出ました。19歳の時に初めて海外に出て、上海、香港、サイゴン、ボンベイ、ザンジバルなどを出稼ぎで放浪しました。
赤崎伝三郎は、33歳の時に最終地のフランス領マダガスカル島でホテルジャポンをはじめ、レストラン、映画館の経営をてがけて大成しました。
やがて日露戦争が開戦となり、ロシアのバルチック艦隊がマダガスカルに寄港した時、赤崎伝三郎はロシア軍の規模や軍力を詳細に調べ、インドの日本領事館に打電しました。その結果、日本軍はバルチック艦隊を迎え撃ち、勝利しました。
赤崎伝三郎は、昭和4年、事業をイギリス人に譲り、帰国しました。海外へ出て40年後のことでした。
そして、昭和12年2月20日、故郷高浜の現在の地に和館と洋館建ての豪邸を建てました。
昭和18年5月5日には、赤崎邸に宿泊した松竹映画『花咲く港』の木下恵介監督と俳優一行と記念撮影をしています。
昭和20年4月23日に死去。享年75歳、親孝行のために、アフリカまで出稼ぎに行った、波乱万丈の人生でした。
赤崎伝三郎の寝室は、わずか三畳の部屋で、どんなに成功して裕福になっても、親と共に苦労して育った少年時代を決して忘れずに暮らしていたのでした。
昭和25年5月には、白磯ホテル(旧赤崎邸)が開業しました。主人赤崎八十八が経営しました。